自分は一体誰なのか?
あなたはこんな風に思ったことはありますか?僕は何度もあります。
誰かと言われたらもちろん自分自身なのですが、何となく違和感がある。
もしそのように感じているのなら、それは本当のあなたが侵食されている証拠です。
どうやらこの社会は人を歪めたり潰したりする力が強いようです。
真面目に頑張れば頑張る程に自分を見失っていくように仕組まれた環境。
少しでも飛び出ていれば打たれて地ならしされ、角が立っていれば削られる。
あなたという人間のキャラクターをすべて削ぎ落とそうとしてくるのがこの社会です。
今回は、自分を見失う原因と打開策のお話です。
月曜から金曜までみっちり働き詰めて、つかの間の土日をはさんでまた働く。
この生活を、40年余りという途方もなく長い期間ただ延々と繰り返す人生。
考えるだけでもめまいがしそうですが、世のほとんどの人はさも当然のようにこのような生き方をしているわけですね。
何の代り映えもなく延々と繰り返される日々、昨日と同じような今日、今日と同じような明日。
変化も刺激も感じられないまま、ただ季節と月日だけが過ぎ去っていく。
どうしてこんなにも毎日が同じことの繰り返しで、彩もなく殺風景なのかと、そんな疑問が浮かびます。
それは、労働が生活の主軸になっているという点に答えがあります。
1日24時間のうちで、労働が占める割合というのは果たしてどれくらいでしょうか。
実労働に加え、通勤や帰宅にも時間を要し、これに早出や残業なども入ってくる。
そう、1日のほとんどの時間を、労働とそれに関連することに費やしているのがおわかりいただけると思います。
なおかつ給料をもらう以上は労働は義務であり、義務というのはあなた自身ではどうすることもできないものです。
毎日が同じことの繰り返しになってしまうのは、自分の意思とは関係ない義務の時間が1日の大部分を占めていることが原因なんですね。
日常がただ義務を消化するだけの単純作業と化し、思考が停止してしまった状態で生きている。
加えて、労働者というのは自我や個性を殺されます。
雇う側からしたら労働者というのは仕組みの一部、言ってしまえば歯車なわけで、くるくると円滑に回り続けることが求められますので、そこに自我や個性なんていう不確定要素はいらないわけです。
つまるところ労働者は、自身の本来のキャラクターを潰された状態で義務を消化する日々を送っているんです。
こんなことをしていては、自分を見失うのも当然だと思いませんか?
給料を与える代わりに自由を奪い、あなたが何者であるかを忘れさせてしまう。
たかだか20万そこそこを貰うために、これほどの代償を払う必要があるのかって話ですよ。
自分自身を偽って押し殺して、なるべく波風立てないように、当たり障りのないように、すべては給料を貰うため。
そのうち一体どれが本当の自分なのかわからなくなってしまうんじゃないかと、そんな不安に襲われます。
自分を見失ってまで給料をもらうことに何の意味があるのか。
お金があっても自分自身がわからないのなら、一体なんのために生きているのか。
あなたが我慢して犠牲にしている色んなこと、それはたかだか20万くらいのはした金くらいの価値しかないんですか?
誰が何と言おうと、僕は絶対違うと思います。
基本給だかなんだか知りませんが、随分と低く見積もられたものですよね。
まわりがみんなそうだからと、社会のルールがそうだからと、そんなくだらない枠組みの中に自分を閉じ込めるのはもうやめにしませんか?
偽りの自分を演じることで社会に適応して給料を貰う、これを続けた先に輝かしい未来が待っているとは到底思えません。
あなたは今まさに自分を見失いかけているのかも知れませんね。
そんな時に考えてみてほしいのが、”自分が望むものは一体何だったのか”ということです。
欲しいもの、住みたい場所、行ってみたいところ、やってみたいこと、そして理想の人生像。
同じことの繰り返しの労働生活の中では忘れかけていると思いますが、これらを思い出すだけでもぼやけていたあなたの人物像がくっきりとしてくるはずです。
では、導き出された望みを労働生活で手に入れることができるのかというと、答えはNOです。
前述の通り、労働生活というのはあらゆる束縛で埋め尽くされています。
自由な時間は皆無、職場の近くに住まなければならない縛り、あなたの人格を歪めてしまう職場の人間関係、きれいさっぱり使い切る給料。
あなたが望むものは、労働者でいる限りまず手に入らないと思ってください。
ではどうするかというと、選択肢はただ一つ、”労働者を辞める”ことだけです。
これでは少々語弊がありますので付け加えると、”自分の力でお金を生み出して労働者を辞める”ということです。
要は給料にすがっているから、その代わりに何もかもを持って行かれてしまうわけです。
それならいっそのこと自分自身でお金を稼げるようになれば、給料に依存せずに生きていくことができますし、労働の束縛からも逃れることができますよね?
そしてなによりも、自由になることで本当の自分を取り戻すことができます。
この息苦しく淀んだ社会に嫌気が差し、自分で稼ぐ能力を身につけて自由を謳歌している人間が、実は大勢いるんですね。
なおかつ、コネや学歴、知識など一切持たない一個人が続々と成功を収めているという事実があります。
そのチャンスは、あなたが持っているハイテクマシンの中に転がっているんですね。
自分を見失ってまで細い給料にしがみついて生きていく、これでは存在意義でさえも疑わしくなってきます。
自分を歪めて偽って社会に適応したところで決して報われることはないと分かっているのなら、チャレンジしてみる価値は十分すぎるくらいあるのではないでしょうか。
長い間労働生活に身を置いていると、ゆくゆくは完全に自分を見失い、給料を貰ってただ生きるだけの労働ロボットになってしまいます。
魂を抜かれ、生きる意味や希望を見いだせないままに最期の時を待つことになるんです。
人として生まれてきた以上、これだけは絶対に避けなければなりません。
そのためには、
他力本願ではダメ
事を起こすなら早い方が絶対にいい
この2つのマインドが非常に重要と言えます。
お金を得るということに関しては、誰かに救い上げてもらえるだろうという受け身の考えはご法度です。
労働者は雇われの立場という点で受け身なわけですが、お金を貰う代わりにどれほどの犠牲を払っているか、というのは前述の通りです。
また、自分で稼ぐ場合に関しても、稼ぐのはあくまでもあなた自身であり、誰かが稼がせてくれるだろうという考えではいつまで経っても成果を上げることはできません。
自分の頭で考え、自分の意志で行動する、これが重要です。
加えて、やるべきことを先延ばしにするのもいい結果を生みません。
今日じゃなくてもいいや、明日でいいや、気が向いたらやろう・・・
こんなことでは労働の沼から抜け出すことは不可能です。
やるときめたら明日でも今度でもなく今です。
当然ですが、今この瞬間に動き出した方が、明日始めるよりも早く成果が出るわけです。
僕たちの命が期限付きなことを考えると、いかに早く行動に移せるのかがカギとなるんですね。
人生を好転させるためには、自分の意志とスピーディーな行動、これが肝要です。
〜あとがき〜
僕が自分でお金を生み出す決心をしたのは、自分ではない自分を演じ続けるのに疲れてしまったというのが理由の一つとしてあります。
このままでは本当の自分が分からなくなってしまうという恐怖心は常にありましたし、そうなったら人生終わりだなとも思っていました。
自分自身の輪郭を保つことができたのは、自分はなにが欲しかったのかを忘れなかったからだと思います。
本当の自分でいられるために、望みを叶えるために、自分で稼ぐ意欲は加速していきました。
自分で稼ぐ力を身につけるというのは何もかもが自発的ですから、労働者の受け身思考から抜け切れていない頃はかなりのパワーを必要としましたね。
なかなか思うように作業が進まず、不安と焦りばかりが募っていた時もありました。
しかしながら、どんなに小さな歩幅でも歩みを止めなければ、想像以上に遠くまで行けるものだなと感じています。
あなたの最初の一歩が、後の人生を変えるターニングポイントとなるかもしれません。